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7、アナウンサー時代の刷り込み

『安い、早い、そこそこ上手い』
それは、新人が世に出る時には必要なことだと思った。
ギャラが安い。現場でNGが少なく収録が早く進む。そしてとりあえず基本ができていてそれらしくまとめる力がある。
しかし、いつまでもそこで満足していてはいけない。
そこから一歩抜ける段階に進まないと進歩はないと思った。

無難にこなせると重宝される一方で、没個性の原因の一つは声だ。
私は、例えばハスキーであるとかキャラクターっぽい声であるとか、そういう特徴的なものは何一つない。
比較的つるんとしたまぁ聴きやすい声で、そこそこ明るくそこそこ落ち着いている。
現代のアナウンサーは、個性というか個々の特徴の声そのままに表現することが当たり前だが、その頃の女子アナウンサーの声、声の出し方には、ある程度決まった雛形があったような気がする。地方局になればなるほど、その傾向が強いような気がした。
裏声の高いトーン、作り声だ。

その時点から15年以上も前のことになるが、局アナになったばかりの頃の忘れられないエピソードがある。
ラジオの深夜放送が花ざかりで、当時はパーソナリティーと呼ばれる人気DJがたくさんいた。
どんなアナウンサーになりたいかと聞かれて、同期の一人がパーソナリティーと答えた。
すると、上司は、カッと目を見開き、
『男子アナはパーソナリティになりうるが、女子アナはパーソナリティーにはなれない。女子アナはアシスタントだ』と言い放った。
気まずい雰囲気が広がった。
それは違うんじゃないかと心の中で反論したが、ここでは要求されることに応えていかなければならないんだなと思った。

上司の価値観に敢然と異を唱える勇気も、自分なりの表現でそれを証明していく感性もセンスも、私は持ち合わせていなかった。
忙しさに紛れ、画一的な声と表現の中にどっぶり浸かっていた私は、それが当たり前でそれ以外の発想がなかった。
フリーになって感じた限界は、そこに起因している。

この部分から変えていこうと思った。
私自身のホントの声で表現する。
それが、この混沌としたレースから抜け出す鍵になる。
没個性の象徴である裏声を封印することに決めた。




この記事のみを表示する6、心理的背景 『早い 安い そこそこ上手い』

6、心理的背景 『早い 安い そこそこ上手い』

地方局のアナウンサーを振り出しに、フリーになってからはナレーターとして音声表現中心の活動をしてきた。
いくつかのプロダクションを経て、その頃は、俳協という大手事務所に所属していた。
その時点でのキャリアは、局アナ時代を含めて、13,4年という時期で、仕事は順調、ストレートトークというナレーションの分野で、そこそこ稼働していた。

発症したのは、1993年頃だ。
どうも調子が悪いと感じ始めて、医者に診てもらったり人に相談を持ちかけた頃、よく言われたのが、仕事のストレスじゃない?ということだ。
特に私は、人の書いた原稿を読むナレーターという仕事をしていたので、自分を表現できないストレスで、無意識に喉をつめているんじゃないの?というものだ。
確かに、自分の感じたことや思ったことを自分で選んだ言葉でストレートに表現する仕事ではない。
だからと言ってそのことが自分を殺すことにつながり、ストレスになるという考え方に結びつくとは思えなかった。

一般の方にはわかりにくいかもしれないが、音声表現にはいくつかの職種がある。
フリートークに長け、機転を効かせながら話を聞き出したりプログラムを進行させていくアナウンサーや司会者。
個性的な声や表現、存在感で、出演する人やキャラクターを演じる役者や声優。
緻密に構成された作品で、制作者や出演者の意図を間接的に表現していくナレーター。

表現者の個性や技量によってクロスオーバーはあり、違ったテイストの表現が新鮮と、もてはやされることも多々あるが、大方住み分けされていて、表現を聴くとどの出身かもわかる。
私の場合は、アナウンサーから徐々にナレーターに落ち着いていった。
キャリアは10年以上で、しかもアナウンサー出身なわけだから、フリートークが得意で、人と話すことが大好きだったら、もっと以前に、そういう方向で仕事をしているはずだ。

仕事に関する不安要素を感じることは、ほとんどなかった。
仕事はいい方向に動いていたし、今までの人生で一番充実していたと思えるぐらいだった。
この状態がストレスというなら、私はこれまでに何度も病気になっていたはずだ。
その時は、100パーセント心因性のものではないという自信があった。

しかし、数年してその時の状況を冷静に振り返ることができた時、私自身の性格というか生き方の癖というか、そういうものが何らかの影響を与えていたのかなと感じることもあった。

当時は、確かに仕事の稼働率という点では充実していた。
番組やCMのナレーションもあったが、数が多かったのはビデオのナレーションだった。
ビデオパッケージ全盛で、また音声応答システムや学習用のコンピュータに使用する音声合成の声素材としての仕事も出はじめた頃で、多く駆り出された。

クライアントは、政府や自治体、教育機関などの公的機関から一般企業まで、多岐に渡った。
取扱説明的なビデオや社員教育用など、数日拘束で何百ページもの台本を読んだり、時には、企業の研修用の宿泊施設に滞在して、専用のスタジオに缶詰になることもあった。

アナウンサーからフリーになり、そう簡単に仕事にありつけるものではないとしみじみ思う時代もあった。
元局アナはごまんといる。始めからフリーで頑張っている人、役者や声優、タレントなど、ライバルは他の業種からも参入する。
その中で、安定して仕事をしていけるのはホンのひとにぎりだ。
冷静に分析すると気の遠くなるようなことだが、それでも続けることができたのは、単純に面白い!と思える気持ちが、不安より優っていたからだと思う。

メディアには、様々な音声表現が溢れていた。
うっとりするような優しくて綺麗な声。
お世辞にも綺麗ではないけれど、耳に残って離れない声。
ハスキーでハッと注意を引く声。
たどたどしい読みなのに惹きつけられる表現。
シャープで迫力のある女性の低い声…

世の中には、今まで自分が発想できた表現の何十倍もの種類の声や表現が溢れ、価値ある商品として存在していた。
フリーになりたての私は、これから自分がやっていけるかどうかよりも、そのフィールドの広さと深さに驚きワクワクし、探索が始まった。
そして、フリーになって一年もしないうちに、当時、テレビやラジオから聞こえる声の持ち主は、ひと声聴いただけで誰かわかるようになった。

フリーになってから、自分はストレートトークタイプだなと漠然と感じていて、それは、多くの可能性の中からそのジャンルを選んだのではなく、自分が勝負できるのは、どうやらここだけかもしれないという消極的な気持ちがあったことも否めない。

CMや番組のナレーションは、周りの反応も寄せられ知名度アップにもつながるので、仕事としては華やかで楽しい。
一方、オンエアにのらないナレーションは、内容は専門的なのもが多く、限定された人のためのものなので、地味な印象はある。
しかし、ビデオパッケージでは、たとえば医療機器や建築工法など、私生活では全く関わりのなかった世界のコアな部分の表現であり、それを説得力をもって伝えなくてはならないので、高い技術力が必要とされる。
聴きやすい声、ミスの少ない安定した読み、長時間の収録でも劣化の少ない声、たった今目にした専門用語に対応できる力…
ビデオパッケージのナレーションに呼んでもらえるのは、ある意味、音声表現者としての基礎力を評価してもらえていることなので、誇らしい気持ちがあった。

いま思い返すと、私自身の仕事の履歴にもそれなりの道筋があったのだなと感じる。
それでも、その頃は、こういう方面にチャレンジしたいとか、こういう仕事をしたいとか、音声表現をさらに磨くとか、そういう前向きな発想や上昇志向はあまりなく、与えられた仕事をただ楽しくこなしていたという印象だ。
ともかく自分を思い出してくれて声をかけてもらえることが嬉しかったし、プロの作り手の中にいられることが楽しかった。

しかし、安定して仕事が入るようになり、少し欲が出てきた頃に、疑問に感じることが出てきた。
継続して使ってもらったり、同じディレクターに違う作品で呼んでもらったり、現場との関係も良好で、少しづつ自分の居場所が広がっていると感じていても、例えば予算のある番組や特番になると、あっさり、役者さんやタレントさん、先輩のナレーターにキャスティングされてしまうことが度々あった。

はじめは、自分はまだまだ若手だから、それほど知名度のないナレーターだからと心の中で言い訳していたが、はたしてほんとにそうだろうかと思うようになった。
このまま使ってもらえる仕事をコツコツつみかさねていけば、将来、今逃した作品のようなものに指名してもらえる人になれるのだろうか?
ひとかどの表現者になれるのだろうか?
そもそもひとかどの表現者って何?どうなりたいの?どこに着地したいの?

そんな自問に何一つ答えられない自分がいた。
明確な目標もビジョンも持たず、ただ稼働していることが楽しい日々は終わったと思った。
今のまま『早い、安い、そこそこ上手い』だけでは、どのみち埋没してしまう。
自分の表現を持たなければと思った。
キャスティングの時に真っ先に思い出してもらえるような表現者でありたいと初めて強く思った。

情けない話だが、十数年仕事してきて、表現者としてどうしたいのかどうありたいのか、自分に正面から向き合ったのは、これが初めてだった。
そして、大きな気づき、ステップと思われたことが、皮肉にも発声障害へのきっかけとなっていった。





この記事のみを表示する5、変遷

5、変遷

5、変遷

発声障害にはいくつかの種類があり、それぞれ明確な診断基準がある。
特に『けいれん性発声障害』に関しては、現在では、神経疾患、局所性のジストニアととらえ、心理的な要因とは無関係であることや音声訓練での治療は極めて困難であることなどが、専門医の間での共通認識である。
医学的な定義は専門家に任せるとして、私は、自身の発症からその症状の変遷、その時々で起こった環境の変化などを振り返ってみたい。

発症と思われる時期は、1993年頃だ。
この20年あまりの間に、症状には大きく分けて三つの変遷があった。
初期(1993年から1995年頃)は、わずかな嗄声、語尾が割れる、喉に一枚膜が張り付いたような違和感だ。
嗄声という言葉は、症状がひどくなってから知った言葉で、当時は、捨て息(声に変換されずに漏れる息)が多くなり、気持ち良く響かないという感覚だった。
気になる時もあれば、まったく何も気にならない時もあった。

2年ほどかけて2段階目の症状に移行。
激しい変化の時期。1996年頃から2000年頃。

詰まる、締まるという変化が現れ、脱落する音が気になることも出てきた。
わずかな音の高低でも苦しい音になったり、話しているとどんどん締まって息苦しさを感じたり、喉を開こうとするとそれ以上の力で閉まろうとする異常な力を感じて、常に緊張感があった。
また、うまく息が吐けていない感覚があった。
普通、声は呼気で出ているのに、喉で息が滞留しているような、むしろ吸気で発声しようとしているような妙な感覚もあった。

この頃、裏声から地声に変えた発声を試していたので、それが原因かもしれないと考え裏声に戻してみたりしたが、元々の自分の普通の状態というのがわからなくなり、戻る場所さえなくなったと感じた。
どんな音程で話していたのか、どんなタイミングで呼吸をしていたのかさえわからずパニックになることもあった。

『大な振え』と『小さな振え』と、私が勝手に名づけた現象がある。
たとえば、『あー』という長音を出そうとすると、いきなり断続的なブツ切れの音になる。
長音でなくても、会話やナレーションの言葉の連なりの中でも同じようなことが起きた。
ブレーキとアクセルを一緒に踏んでいるように、ガッ!ガッ!ガッ!ガッ!っという、まるで声帯の開け閉めの動きがわかるような断続的な音になる。
これが『大な振え』と呼んだ現象だが、『けいれん性発声障害』で、よく言われる『詰まる』という表現は、私の感じ方で説明するとこうなる。

この現象を経験してから、小刻みな『小さな振え』が出るようになった。
瞬時に息が吸えない、喉で息が滞留して吐けないので押し出すようにして音を出す、吸気で発声しようとしている感覚…などが伴う。
呼気も吸気も通常の3分の1ぐらいしか動かず、声に変換できるのもわずかな量で小刻みに震える。
余談だが、この『小さな振え』現象を私は『ちりめん状態』とも呼んだ。
シュワシュワっと内側に縮んだままで外に伸びていけない感じ。

後に分析するに、『大な振え』を押さえ込むために、呼気も吸気も無意識で制限した結果、『小さな振え』になったのではないかと思った。
実際、『小さな振え』の時は、吐く息のみならず吸う息も、一気に吸えずに小刻みになった。

ともかく、さまざまな症状に悩まされいろいろな治療法を試みた時期。
何事もなかったように、突然いい状態が巡ってくることも度々あった。

この時期に関しては、症状が加速し変化の多い時期という括りで2段階目としたが、私の感覚では、さらに二つに分けることができる。

前期は、心理的なこととは関係なしに、症状がランダムにやって来た時期。
後期は、実際の失敗や失敗しないまでも何とか乗り切った時の不安感が引き金となり、自分が何者かに乗っ取られたように悪い状態に引きずりこまれるパターンが頻発した時期。
もしくは、前期の症状を何とか阻止しようとする心理的な要素が、ますます複雑な症状を作っていった時期。
例えば、『大な振え』は前期の特徴で、『小さな振え』は後期の特徴だ。

前期と後期は交錯しながら訪れ、やがて気づくと、声を出すことに関して、仕事やプライベートに関わらず、不安と隣り合わせの時間が多くなっていった。

3段階目。落ち着いた状態。2000年以降現在まで。
激しい締まり感や詰まり感はほとんどなくなるが、時々不意に出てくる。
症状としては、『小さな振え』や微細なブレ、呼気と吸気の乱れだ。

動揺せずに通り過ごせる時もあれば、真っ逆さまにその状態目指して崩れる時もある。
怖いと感じるのは、一気に崩れていくときの感覚だ。
過去の同じような時の記憶と共に、『やっぱり、何も変わっていない、まただ…』とネガティブな感情が一気に押し寄せる。

しかし、2段階目のように、ずっと乗っ取られっぱなしではなく、数分、長くても数十分で抜け出すことができる。

この段階にきて、症状を引き起こすバックグラウンドが、初期の頃とまったく変化していると感じた。
初期から2段階目前半までは、一般的な『けいれん性発声障害』に似た状態。
それ以降は、表に出ている症状としては『けいれん性発声障害』に似ているが、引き金は、完全に過去に感じた不安感や体験、記憶が関係している。

また、3段階目では音声訓練が特に有効だったと感じた。
というより、2段階目までは、出来ない自分、不自由な自分の声を目の当たりにすることが怖くて、受けることができなかったというのがホントのところかもしれない。
3段階目に入って、乗っ取られっぱなしではないということが分かって、初めて安心して受ける気持ちになったというのが、私の場合の真実かも知れない。

初期から3段階目まで、おおよその変化を振り返ったが、このおおよその年表に、音声表現者として特筆すべきことと環境の変化、試みた治療内容などを重ね合わせてみたい。







この記事のみを表示する4,動機-2

4、動機-2

この問題にこだわり始めてから20年という歳月が流れた2013年6月、私にとって一つの区切をつける出来事があった。
『けいれん性発声障害』を知るきっかけになった本の著者、京都の一色信彦医師の診察を受けたのだ。
そのいきさつにはいろいろあるのだが、アナウンサーの後輩で、当時一色医師のもとで音声訓練の指導をしていた轟美穂さんが、きっかけを作ってくれた。
轟美穂さんは、同業者としてボイストレーニングや呼吸法、さまざなまボディーワークなど一緒に探求してきた仲間であり、私の発声障害に関しても常に近くで見守っていてくれた友人の一人だ。
以前一度、一色医師の話を伺う機会があったが、診察を受けるのは初めてだ。
ここ2、3年はさらに状態にも変化があり、はじめの頃の症状はほぼ消失している。
しかし今だに自身で感じる違和感はあり、今まで数多くの患者をみてきた専門医が、どう診断するのか、またどんなところに注目して発声障害をみているのか、治療者としても興味があった。

数種のテストと喉頭所見の結果、今の私は『けいれん性発声障害』とは程遠い状態であるとのことだった。
極めて正常な状態らしい。
しかし、喉頭所見や音声には現れないが、患者本人が感じる明確な違和感について、過去の症例をもとに、発声障害についての先生ご自身の考えなどをお話くださった。
さらに声とメンタルとの関係などご自身の体験を交えながらのお話には、私が今まで西洋医学のドクターに対して抱いてきた印象とは違うものを感じた。
このことは、後ほど、西洋医学と代替医療との違いや治療観についてのところで、再度触れたいと思う。

さらに一色先生は、
『はじめのけいれん性発声障害のような症状から今日まで、何を試してどう変わってきたのか、詳しく書いてごらんなさい。あなたしかわからないことが知りたいんですよね』
とおっしゃった。

帰りの新幹線の中で、私はその言葉をかみしめていた。
あれから20年も経って、自分の状態も変化した今、今さら書いても医学的な意味は何もないと感じていた。
その一方で、何かしらの発声障害を克服して、自分なりの治療の考え方や表現者としての声への向き合い方など、積み上げてきたものも確かにあると思っている。
実際に、そのことがベースになり、今現在患者さんに向き合い、また表現者としても活動している。
あ、そうだった…と思った。
私は、自分の問題がきっかけで治療の世界に足を踏み入れたのだった。
まず一番に自分の問題を何とかしたくて治療の勉強を始めた、この上なく自分本位な治療者だった。
もちろん、今はどんな訴えの患者さんに対しても必死に症状改善のために努力はしている。しかし、問題部位の変化や映像所見、検査数値を大切にする西洋医学に対して、それらに現れなくても患者さんの違和感に寄り添うという基本的な姿勢は、自分の問題から学んできた。
ならば、私自身に起こったことを振り返り、体験から得たことをまとめることは、最も私らしい方法だと思った。
自分をたった一人の症例に取り組んできたものが、何を今さら医学的な根拠とか価値とか気にしているのだろうか。
振り返ることで、私自身がこれから私の患者さんに対して有効なことを一つでも発見できればそれでいい。
なるほどと思ってくれる人が一人でもいれば、なおいい。

こうして私は、過去の扉を開くことにした。


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3、動機-1

今振り返れば、私の内なる不安や恐怖がついに表出したこの事件は、その後の私の人生の選択に少なからず影響を及ぼしたと言える。
まさにエポックメイキングな出来事だった。

同業者に言わせると、声を出すことの多少の違和感や変化は、誰だってあるもの。
まして、声を使うことを生業とする人なら、ある程度神経質になるのは当然のことだし、むしろ何も問題がないという人の方が少なくて、みんな多少のトラブルを抱えながらも何とか折り合いをつけて仕事を続けているんじゃないの?
現場での失敗や挫折など誰にでもあること。
結局は、あなたは打たれ弱い人間で、それまでさほど辛い体験をしたことがなかったから、いたく傷ついたんじゃないの?
というのが、大方の意見だ。

確かにそうだ。
私は小心者で打たれ弱いタイプだ。
しかし、この出来事は誰にでも起こりうる事がたまたま起こったことではないと、私は確信している。

その時までに私はかなりの数の専門医に診てもらったが、その部位に何の異常も見当たらないという。
医者はそう言うが、私の中には気のせいではない違和感が確かに存在し続けていた。
ほら、やはり何か密かに進行していたのよ。
そういう気持ちになるのは当然だった。

治療の仕事を始めて、声に関する違和感に限らず身体の様々な部分で、同じ種類の問題を実感した。
医者にみてもらったが何も問題はないと言われる。
映像所見も検査の数値も異常はない。でも明らかに違和感がある。
それは時に明確な痛みだったり、日常生活に支障をきたすほどの違和感だったりする。
そんな患者さんの何と多いことか。
私たち代替医療に従事する者は、そんな患者さんの受け皿であると言っても過言ではないぐらいだ。
その『何も異常はない』『分からない』という現実が、どれほど出口の見えない状況を作り出し患者の不安感を募らせるか、私にはよくわかる。

一方で、不可解な症状の一部は、長い年月かけて医学的に解明されて行くこともある。
その事件からさらに10年近く経った頃、私は一冊の本に出会う。
そして、『けいれん性発声障害』という病の存在を知ることになった。

その一文は、京都在住の音声外科医一色信彦医師が書かれた『声の不思議 診察室からのアプローチ』という本の中にあった。
この病の患者さんの代表的な訴えに釘付けになった。
一部を抜粋させていただく。

『三年前からときどき声がつまり、出なくなったので専門医の診察を受けました。
声帯に異常はないからということで、精神安定剤などを処方されましたがまったく効きませんでした。
原因は特別心当たりはありません。
しかし電話のときには特にひどくなります。
長いこと話をしていると。だんだん声が震えてきます。
名前を呼ばれてハイと返事をしようと思うのですが、声がとっさにつまって出ないことがときどきあります。
今日はいつもより調子がよいですが、いつもはもっとひどいのです。』

この訴えは、100パーセント自分だと思った。
長年のモヤモヤしたもどかしい思いが一気に氷解する思いだった。
と同時に、同じように何が何だかわけがわからず、たった一人で鬱々ともがき苦しんでいた人がたくさんいたことに驚いた。

後に一色医師から直接聞いたことだが、同じような訴えで受診する患者の数は年々増え、特にけいれん性発声障害に関する講演を行ったあとは、急増する。
潜在的な患者の数は計り知れないという。

実は、一色医師の本に出会う少し前から、WEB上でその病名は目にしていた。
2000年に入ると、HPやブログも充実し、たくさんの人が情報を発信するようになった。不可解だった病も最新の情報や治療法が次々に紹介され、また患者の体験記も多く読むことができるようになっていた 。
それらの情報をつなぎ合わせると、当時私が感じた閉塞的な状況から変化している様子はうかがい知ることはできた。

一色医師の本にであった頃、私自身は、その症状をよく言えば受け入れ、悪く言えば半ば諦めていた。
好転しているかと思えば揺り戻しがあり、期待と落胆の振り幅も徐々に少なくなっていた。しかし、ジストニアの一種という明確な病の背景がわかったことで、再び探究心が湧いてきた。

webで聴いた患者さんの音声には、胸が痛くなった。
音が脱落したり、呼吸も苦しいに違いないと思われるほど激しいつまりに、言葉がほとんど聞き取れない症例もあった。
その音声を耳にすると、私の喉頭はその状態にわずかに同調する。
症状の程度は違うが、その時の喉の感覚はリアルによみがえる。
同じ症状の患者さんがいるという安堵の気持ちは、自分の症状など比べ物にならない重度の患者の声を耳にして、何ともやりきれない気持ちに変わっていった。

当時の私の状態は、かなり安定していた。
発作的にそういう状態がやってくることはあったが、以前のようにずっと乗っ取られたままではなかった。
いっときのまるで暴れ馬のような状態をやり過ごせば、いい状態はまた巡ってくる。
そう信じることが、それまで悪戦苦闘して自分の身体と心に向き合ってきて得た唯一のポジティブな思いだった。
何度も何度も揺り戻しがあり、希望と落胆は常にセットで私の周りに張り付いていた。
悪いことをほじくるより、確実に変化してきたところを認めて、その部分を広げて行こうと思った。
そして、自分の問題を題材に、治療法や音声訓練法を学び、試し、蓄積してきた。

私の場合、頻繁に専門医を訪ね歩いた1995年頃は、まだその病は日本では認識されておらず、けいれん性発声障害と診断されたことはない。
症状が推移し一部消失している今では、果たしてその病だったのかどうかは、もはやわからないし、過去に試みた数々の方法や私自身の内的変化や症状の変遷に、医学的な価値があるかどうかもわからない。

当時の私は、ナレーションの世界に身を置きながら治療の仕事もしていた。
治療の世界に足を踏み入れたきっかけも、声の問題だ。
専門医と言われるドクターにひとあたり診てもらったが、変化の兆しも見られず、さらに代替医療、その他自分のアンテナに引っかかったものはすべて試した。
しかし、満足の行く結果は得られず、ついに、これは自分で引き受け自分でみていくしかないと思った。
後述するが、それまで体験した中で、一番自分にあっていると思われる治療法に興味を持ち、小さなセミナーで学んだ。
民間の療術学校にも通った。
オステオパシー系の治療院で修行し、鍼灸学校で学び、鍼灸師の国家資格も取得した。
とにかくジッとしていることが、さらに閉塞的な状況を生んでいくような気がして、何かに憑かれたように突き進んだ。
不思議なことに、自分でみていくと決心してから症状に変化が現れ始めた。

何が功を奏したかは定かではないが、常に底辺にあった違和感は薄れ、何でもない時の方が多くなってきた。
しかし、あぁ、もう抜けたのかな。もう大丈夫かなと思っていると、当たり前のようにその違和感はやってくる。
何度も何度も同じ道を行き来しながら、もはや、抱えてきた違和感が現実のものなのかも確かではなく、もしかしたら単に精神を病んでいるせいなのかとさえ思えてくる時もあった。
ほとほと疲れ果て、諦めかけても、その問題が常に頭のどこかを占領していた。
同時に、音声表現者としての活動に終止符を打つということも考えたことがなかった。

治療の勉強を始めたきっかけは声の問題で、今もそれは私の重要なテーマであり、治療院開業後も当たり前のように二つの仕事を続けている。
気づけば、20年の長きに渡り、その問題は、すべてのことをさておいて、私の人生の中でずっと優先順位一番であり続けているわけだ。
なぜそれほどこだわり続けてきたのか、正直言ってよくわからない。
しかし、もがき苦しんでいた頃、この出来事と身体の違和感は、決して忘れないでおこうと思った何か執念めいたその感情だけは、はっきり憶えている。
確かに、粘着質な性格の部分はあるが、続けてきたことに何か意味があるのかどうか、その答えはまだ出ていない。

それでもふと気づくと、始めのただの患者の立場から治療者としての活動をしている現在まで、私はこの問題を通して多くのことを学んできた。
何をもって病とするのか、西洋医学と代替医療との違い、治療とは何か、どういう意図でどんな治療法を選ぶのか…
自分らしい声とは、声とメンタルとの関係性、身体という土台と声というその一部との関係性、音声表現者として自分は何を大切にしていきたいのか…

それらは、順風満帆な人生の中ではきっと触れることがなかった私自身の表現観や生命観、治療観について考えさせてくれた。