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3、動機-1

今振り返れば、私の内なる不安や恐怖がついに表出したこの事件は、その後の私の人生の選択に少なからず影響を及ぼしたと言える。
まさにエポックメイキングな出来事だった。

同業者に言わせると、声を出すことの多少の違和感や変化は、誰だってあるもの。
まして、声を使うことを生業とする人なら、ある程度神経質になるのは当然のことだし、むしろ何も問題がないという人の方が少なくて、みんな多少のトラブルを抱えながらも何とか折り合いをつけて仕事を続けているんじゃないの?
現場での失敗や挫折など誰にでもあること。
結局は、あなたは打たれ弱い人間で、それまでさほど辛い体験をしたことがなかったから、いたく傷ついたんじゃないの?
というのが、大方の意見だ。

確かにそうだ。
私は小心者で打たれ弱いタイプだ。
しかし、この出来事は誰にでも起こりうる事がたまたま起こったことではないと、私は確信している。

その時までに私はかなりの数の専門医に診てもらったが、その部位に何の異常も見当たらないという。
医者はそう言うが、私の中には気のせいではない違和感が確かに存在し続けていた。
ほら、やはり何か密かに進行していたのよ。
そういう気持ちになるのは当然だった。

治療の仕事を始めて、声に関する違和感に限らず身体の様々な部分で、同じ種類の問題を実感した。
医者にみてもらったが何も問題はないと言われる。
映像所見も検査の数値も異常はない。でも明らかに違和感がある。
それは時に明確な痛みだったり、日常生活に支障をきたすほどの違和感だったりする。
そんな患者さんの何と多いことか。
私たち代替医療に従事する者は、そんな患者さんの受け皿であると言っても過言ではないぐらいだ。
その『何も異常はない』『分からない』という現実が、どれほど出口の見えない状況を作り出し患者の不安感を募らせるか、私にはよくわかる。

一方で、不可解な症状の一部は、長い年月かけて医学的に解明されて行くこともある。
その事件からさらに10年近く経った頃、私は一冊の本に出会う。
そして、『けいれん性発声障害』という病の存在を知ることになった。

その一文は、京都在住の音声外科医一色信彦医師が書かれた『声の不思議 診察室からのアプローチ』という本の中にあった。
この病の患者さんの代表的な訴えに釘付けになった。
一部を抜粋させていただく。

『三年前からときどき声がつまり、出なくなったので専門医の診察を受けました。
声帯に異常はないからということで、精神安定剤などを処方されましたがまったく効きませんでした。
原因は特別心当たりはありません。
しかし電話のときには特にひどくなります。
長いこと話をしていると。だんだん声が震えてきます。
名前を呼ばれてハイと返事をしようと思うのですが、声がとっさにつまって出ないことがときどきあります。
今日はいつもより調子がよいですが、いつもはもっとひどいのです。』

この訴えは、100パーセント自分だと思った。
長年のモヤモヤしたもどかしい思いが一気に氷解する思いだった。
と同時に、同じように何が何だかわけがわからず、たった一人で鬱々ともがき苦しんでいた人がたくさんいたことに驚いた。

後に一色医師から直接聞いたことだが、同じような訴えで受診する患者の数は年々増え、特にけいれん性発声障害に関する講演を行ったあとは、急増する。
潜在的な患者の数は計り知れないという。

実は、一色医師の本に出会う少し前から、WEB上でその病名は目にしていた。
2000年に入ると、HPやブログも充実し、たくさんの人が情報を発信するようになった。不可解だった病も最新の情報や治療法が次々に紹介され、また患者の体験記も多く読むことができるようになっていた 。
それらの情報をつなぎ合わせると、当時私が感じた閉塞的な状況から変化している様子はうかがい知ることはできた。

一色医師の本にであった頃、私自身は、その症状をよく言えば受け入れ、悪く言えば半ば諦めていた。
好転しているかと思えば揺り戻しがあり、期待と落胆の振り幅も徐々に少なくなっていた。しかし、ジストニアの一種という明確な病の背景がわかったことで、再び探究心が湧いてきた。

webで聴いた患者さんの音声には、胸が痛くなった。
音が脱落したり、呼吸も苦しいに違いないと思われるほど激しいつまりに、言葉がほとんど聞き取れない症例もあった。
その音声を耳にすると、私の喉頭はその状態にわずかに同調する。
症状の程度は違うが、その時の喉の感覚はリアルによみがえる。
同じ症状の患者さんがいるという安堵の気持ちは、自分の症状など比べ物にならない重度の患者の声を耳にして、何ともやりきれない気持ちに変わっていった。

当時の私の状態は、かなり安定していた。
発作的にそういう状態がやってくることはあったが、以前のようにずっと乗っ取られたままではなかった。
いっときのまるで暴れ馬のような状態をやり過ごせば、いい状態はまた巡ってくる。
そう信じることが、それまで悪戦苦闘して自分の身体と心に向き合ってきて得た唯一のポジティブな思いだった。
何度も何度も揺り戻しがあり、希望と落胆は常にセットで私の周りに張り付いていた。
悪いことをほじくるより、確実に変化してきたところを認めて、その部分を広げて行こうと思った。
そして、自分の問題を題材に、治療法や音声訓練法を学び、試し、蓄積してきた。

私の場合、頻繁に専門医を訪ね歩いた1995年頃は、まだその病は日本では認識されておらず、けいれん性発声障害と診断されたことはない。
症状が推移し一部消失している今では、果たしてその病だったのかどうかは、もはやわからないし、過去に試みた数々の方法や私自身の内的変化や症状の変遷に、医学的な価値があるかどうかもわからない。

当時の私は、ナレーションの世界に身を置きながら治療の仕事もしていた。
治療の世界に足を踏み入れたきっかけも、声の問題だ。
専門医と言われるドクターにひとあたり診てもらったが、変化の兆しも見られず、さらに代替医療、その他自分のアンテナに引っかかったものはすべて試した。
しかし、満足の行く結果は得られず、ついに、これは自分で引き受け自分でみていくしかないと思った。
後述するが、それまで体験した中で、一番自分にあっていると思われる治療法に興味を持ち、小さなセミナーで学んだ。
民間の療術学校にも通った。
オステオパシー系の治療院で修行し、鍼灸学校で学び、鍼灸師の国家資格も取得した。
とにかくジッとしていることが、さらに閉塞的な状況を生んでいくような気がして、何かに憑かれたように突き進んだ。
不思議なことに、自分でみていくと決心してから症状に変化が現れ始めた。

何が功を奏したかは定かではないが、常に底辺にあった違和感は薄れ、何でもない時の方が多くなってきた。
しかし、あぁ、もう抜けたのかな。もう大丈夫かなと思っていると、当たり前のようにその違和感はやってくる。
何度も何度も同じ道を行き来しながら、もはや、抱えてきた違和感が現実のものなのかも確かではなく、もしかしたら単に精神を病んでいるせいなのかとさえ思えてくる時もあった。
ほとほと疲れ果て、諦めかけても、その問題が常に頭のどこかを占領していた。
同時に、音声表現者としての活動に終止符を打つということも考えたことがなかった。

治療の勉強を始めたきっかけは声の問題で、今もそれは私の重要なテーマであり、治療院開業後も当たり前のように二つの仕事を続けている。
気づけば、20年の長きに渡り、その問題は、すべてのことをさておいて、私の人生の中でずっと優先順位一番であり続けているわけだ。
なぜそれほどこだわり続けてきたのか、正直言ってよくわからない。
しかし、もがき苦しんでいた頃、この出来事と身体の違和感は、決して忘れないでおこうと思った何か執念めいたその感情だけは、はっきり憶えている。
確かに、粘着質な性格の部分はあるが、続けてきたことに何か意味があるのかどうか、その答えはまだ出ていない。

それでもふと気づくと、始めのただの患者の立場から治療者としての活動をしている現在まで、私はこの問題を通して多くのことを学んできた。
何をもって病とするのか、西洋医学と代替医療との違い、治療とは何か、どういう意図でどんな治療法を選ぶのか…
自分らしい声とは、声とメンタルとの関係性、身体という土台と声というその一部との関係性、音声表現者として自分は何を大切にしていきたいのか…

それらは、順風満帆な人生の中ではきっと触れることがなかった私自身の表現観や生命観、治療観について考えさせてくれた。