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14、記憶の中の映像


真っ暗闇の中の白い羽と重なりながら、私の身体は落ちていった。
頭の芯が引力に引きつけられるように落ちていく。
落ちていくほどに白い羽のイメージは希薄になり、その姿を留めようと追うほどに、また落ちていく。
永遠に続くのかと思った頃、落ちているのかとどまっているのかわからない感覚がめぐってきた。
白い羽は消え果て、自分の身体をイメージするものは何も見えず、まるで自分の身体自体が闇と同化してしまっているような感覚。
恐怖心はない。
不思議な感覚を味わっている一方で、今クラニオのセッションを受けているという意識はしっかりあるのだから。

次に起こることを待つともなくその感覚に身を委ねていると、暗闇の中から一枚のモノクロの写真が浮かび上がってきた。
ノースリーブのワンピースからのぞく細い肩。
パーマをかけたウェーブが肩先で揺れている。
微笑もうとはしているのだけれど、寂しげな瞳ときつく結んだ口元。
今にも泣き出しそうに見える女の人…
母だ!
唐突にそんな思いが突き上げてきた。
しかも、これは今の私と同い年の母だ。
私の中の深いところから、確信に満ちた思いが突き上げてくると同時に、涙が溢れた。

何故母の映像なのか、何故今の私と同い年の母なのか、その映像がどんな意味を持つのか、そして何故涙が溢れたのか、その時は、その時の自分の状況と結びつく答えは何一つわからなかった。
ただただ、どこか遠いところを旅して帰ってきた。そんな感覚と、とても静かにそして深く自分と対峙した時間だったという感覚が残ったのだった。

付け加えると、
その時の母の写真を引きで見ると、母の前にはぶっきらぼうに立っている幼い私がいて、母の細い指は、何か決死の覚悟で私の肩を支えている…
あの写真の母だと後に実家でアルバムを探してみたら、それにほぼ近い構図の写真はあったが、それほど決死の覚悟という形相でも泣き出しそうな顔でもなかった。
しかしこのクラニオのセッション以降、何度本物の写真を見ても、私の中の記憶は、その写真に限ってセッション中の写真に置き変わってしまう。
そして、当時のどの写真も私は変わらずぶっきらぼうで憎たらしい顔をしているが、母がほっそりとはかなげだったのは、その時期だけで、その前後から今現在までほぼ丸々している。

セッション後、プラクティショナーは何か示唆的なことを言うでもなく、あっさりとセッションは終了した。
私の中に、
潜在意識の中に何か大切なものがある。身体は何か知っている。答えは自分の中にある…
明確なそんな言葉ではなかったが、そんな感覚で深いところに落ちてくるものがあった。

そして、遠いところを旅して帰ってきた感覚、静かに深く自分と対峙した感覚は、今まで受けたどんな治療よりも私本位で変化を促してくれ、私自身が答えを見つける手助けをしてくれると感じた。
人は、というかとりわけ私は、誰かに治してもらいたいのではなく自分自身で治りたいのだと思った。

このあと程なく、セッション中の映像の意味がわかる時が訪れた。
そして、何度となくクラニオのセッションを受け、やがて自分もプラクティショナーとしてのトレーニングを受ける中で、不思議なことをいくつか体験したのだった。