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19、遠回りでもいいから

西洋医学ではなすすべがなく閉塞的な気持ちに陥っていた私だったが、身体に働きかけることで得た気づきにより、新たな取り組みへの意欲が芽生えた。
しかし、声を出すことでバランスのとれた使い方をすることの重要さに気づきはしたが、実際にそこに向かって邁進することができなかった。
原因は、二つある。
一つは、できない自分に直面する勇気がなかったこと。
もう一つは、直接的な問題は脇に置きつつ、このまま身体のメッセージを聴き続けたいと思ったこと。

当時、思うように発声できなくなって、まずはじめに取り組んだのは、呼吸法のトレーニングだった。
調子の悪い時は、呼吸の呼気(吐く息)さえ、ガ、ガ、ガ、とブレーキがかかってうまく吐けない時があった。
そんな時は、呼吸でさえこうなんだからと、声を出すことが怖かった。
直接声を出すトレーニングは、できない自分に向き合うことであり、胸がズキズキいたんだ。
何度現場で現実を突きつけられても、こんなはずではないという気持ちが、核心部分に切り込むことをためらわせていた。
時々密かに声を出してみては、出来ない自分、何処か遠くに来てしまった自分に打ちのめされた。
まだ受け入れられなかったのだと思う。

しかし、自分の弱さにただ手をこまねいているばかりではなかった。
直接切り込むことをまだ受け入れられないのなら、自分が一番楽だと思うことからやって行けばいいじゃないか…。
そういう心境だったのだと気づいたのは、ずっと後になってからだったが、とりあえず、自分の発声障害をなんとかしようと試みたものの中で、私自身が受けていて辛くないもの、楽しいもの、興味が持てたものを試していた。

今、治療する立場になってふと気づくと、その当時遠回りしたこと、自分を受け入れられずに逃げ込んだ場所で学んだこと、体験したことが、大いに役に立っている。
そもそも、あの時代がなければ、治療する側になるということはなかったのだから。

結局、核心部分に切り込んでいったのは、発症してから20年近く経ってからだ。
あきれるほど長い時間がかかった。
しかし、私にはそれぐらいの時間が必要だったのだということかもしれない。
遠回りしたっていいじゃない?
それなりの意味があったのだから。